初めてお越しいただく方へ総院長のあいさつ、経歴
こんにちは。当院ホームページへ、ようこそお越し下さいました。
ラクシュミ鍼灸整骨マッサージ院総院長、竹中良富です。
当整骨院は、スポーツをしている学生さんにお越しいただくことが多く、体の違和感を感じることで大好きなスポーツに打ち込めないという悩みを伺い、「一日も早く治してあげなくては」と施術にあたっています。
またこのような学生さんだけでなく、仕事をしている人は仕事の疲れ・同じ姿勢で体がねじれた状態になってしまうなど、現代は年齢を問わず体に悪影響を及ぼしやすい環境になっているように感じます。
そのような状況を踏まえ、当整骨院では、まず全身のバランスを見る・カウンセリング・施術をするというように、来院された方の体と普段の生活のお話をしながら体を調整していきます。
施術にあたる先生・スタッフ一同、痛みでお悩みの方の一日でも早い回復を願いながら、健やかな毎日を送るお手伝いをさせていただくための研究と努力をこれからも続けてまいります。
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代表挨拶
私は25歳から専門学校に入り、28歳から施術の道に足を踏み入れ、気が付くとは早くも40年という月日が流れておりました。
若いころから人生に悩み、苦しみながら進んでまいりましたが、施術の道を歩むことで、自分の人生は「人を癒すことを通じて世の中に尽くすこと」がすべてだと確信を得ることができました。
また、私の現在は人を癒すことこそが生を受けた意味であると、やはり確信するに至りました。
この40年、人生における多くの時間、そして研究費用をつぎ込みながら患者さんこそ先生だと思い、ともに悩み、ともに苦しみながらも、それを糧に勉強と研究を積み重ねてきました。
今後も変わらず、一人でも多くの方のお役に立つことだけを願いながら、日々施術に人生を賭けていくことを決意しております。
私は、学生時代には柔道、アマチュアレスリングに取り組み、警察官となってからはさらに高度な柔道、剣道、逮捕術と、どちらかといえば武道家、格闘家の道を進んでおり、体力には相当な自信がありました。施術家になってからは、身体のバランスの勉強をかねて乗馬をはじめ、国体に出場しました。
そのように若くて元氣あふれる私でしたが、25歳になった時に、過度な運動や暴飲暴食がたたり、急性膵炎を発症してしまいました。
激しい嘔吐や下痢に悩まされ、ついには医師に入院宣言までされてしまいました。
しかし、治療に関して素人であった当時から、東洋医学に興味を抱いていた私は、食事療法で急性膵炎を完治させてやると決意し、日本正食協会の門を叩き、徹底的な食事療法に取り組み始めました。
そして、妻の献身的な協力のおかげもあり、3ヶ月の食事療法の結果、急性膵炎をほぼ完治させることに成功しました。
日本正食協会では、東洋医学の根幹をなす「陰陽五行論」を、基礎からしっかり学ぶことができたと思います。
またそれまでも、それからも、私自身が体を傷めたり、痛みはなくとも体の不調を感じたり、などの経験を多く重ねてきた中で、多くの治療院に通院してきました。
そのような中で幸運にも私は、メンター(指導者・助言者)ともいえる方とも出会うことができました。
その方とは、現在でも変わらずお世話になっています。
そのメンターからご教授いただいたことがたくさんありますが、その中でも特に病気の原因として挙げられるのは、
- 精神
- 構造
- エネルギー
である、ということでした。
その後、治療家の道を歩むこととなった私は、メンターはじめ多くのみなさまのおかげさまで、28歳から現在に至るまで40年間、日々施術道に励んでおります。その間には、人間の左右の微妙なバランスを感じて行動する乗馬にも勉強をかねて挑戦し、全国大会に出場しました。
しかし40年以上を経た今も、未だに施術に苦悩しながらも、目の前の患者さんこそ私の先生だと思い、勉強・研究を続けております。
私が整骨の道を選んだワケ
総院長竹中の経歴
私がこの業界で仕事をするようになった理由やこれまでの体験をご紹介し、少しでも私、竹中良富を知っていただければと書きました。
ご一読いただければ幸いです。
私は1954年、4月1日生まれです。
現在、大阪府堺市北区で、鍼灸整骨院を経営しております。
北区北花田に1院、北区新金岡町に各1院で合計2院ございます。
生まれは石川県。兄弟はおりません。一人っこです。
私が小学校の頃から両親は共働きでしたので、朝6時半に私が起きた時、両親は仕事で家にはいませんでした。いつも食卓のテーブルの上に少し冷めたトーストが置かれていました。
それを私は朝ご飯として食べて、学校に行きます。
勉強が大嫌いで、学校は友達と遊ぶ為の場所でした。
大嫌いでも成績が良ければいいのですが、勉強をしないので成績は悪かったです…
ランドセルを投げ出して・・・
毎日学校が終わるとすぐに、かばんを家の中にぽいっと投げて、友達と遊びに行きました。
夕方遅くなるまでずーっと遊んでいました。
友達の家にはお母さんがいて、夕方になると晩御飯をつくって、友達がひとりひとり「ご飯よ」と呼ばれて、「ばいばい」と家に帰っていきます。
特に仲の良い友達の大西君のお母さんは私の家が共働きというのを知っていましたので、「よし君の分もあるから一緒に食べていってね」と誘われました。
でも、あんまり何回もごちそうになるのは悪いなーと、子供心に感じていました。
なので、夕方暗くなるってくると自分が一番最初に「家に帰るわ。バイバイ」と帰るようになりました。本当は少しでも遊んでいたほうが楽しいのに、「バイバイ」と家に帰りました。
家に帰って「ただいま」と言っても誰もいませんので、シーンとした家の中でお父さん、お母さんが帰って来てくれるのを待っていました。
待っている間、とても時間が長く感じて、時計ばかりチラチラ気にしていたのを今でも覚えています。
柱時計のコチコチという音がとても記憶に残っています。
一生懸命なお父さんとお母さんを見て
そんな私を見て、両親がとてもすばらしいプレゼントをくれました。
それは、NECテレビです。
当時テレビはとても高価なものでした。近所でも数件しかないテレビを。
両親は私のことを気遣ってくれて、本当に一生懸命働いて温かく育ててくれた自慢の両親です。
とはいえ当時まだ7才だった小学生の私は、『うれしい』と飛び跳ねて喜ぶ自分と、「どうして一緒にいられないの?」と不機嫌にダダをこねてしまう自分がいました。
両親が一生懸命働いてくれているのが、わかっていても子供の自分の気持ちでは、すべてを受けいれることができませんでした。
よく友人からは、「よくグレなかったな」と言われました。グレるまではいかなくても、何度も荷物をまとめ家出の準備をしていましたが、最後一歩をふみだせない理由は両親の顔が浮かんできたからです。
一生懸命働いている両親を悲しませることはしたくない。出来ないと。 グレることなくいたのは両親のお陰です。
小学校は3年から6年まで家庭教師、中学では週2回塾
小学校のころは、遊び・遊び・遊びでしたが、中学になると勉強が全然出来ませんではいけないと、親から塾に通うように言われました。
家庭教師というと今では、塾か家庭教師というぐらい子供の勉強の選択肢ですが、昭和35年のときには、家庭教師という言葉なんてほとんど聞かれませんでした。
小学生の私は「どうして?家にまで無理やり勉強をさせに来るのか」と家庭教師から逃げ回っていました。
どうやって逃げていたかは簡単です。その家庭教師の先生がくる時間に「家にいない」「玄関にかぎをかける」「部屋から出て来ない」と、とにかく会わないようにしていました。
わたしはこれで逃げ切っていたつもりですが、先生もそれでは困ってしまい、両親のところに「今日も家にいませんでした」「部屋から出てきません」と当然報告にいきます。
それで何度か両親に説得されて、机に向かい勉強をするようになりました。
が、形の上で、教科書をみても「うーん」とうなるだけ、肝心の頭には全然入っていませんでした。
それは中学時代の成績が証明しています。
恥ずかしいのですが、本当のことなので書きますね
小学校はオール1、体育だけ5。中学校は1から10段階で1が2になるのかと思ったけど1は1で5は7でした。
オール1の評価・・・
「文字通り オール1」でした。1,1,1,1・・・ずらっ?と並んでいます。
体育だけが『5』でした。体育は得意でした。特に体が大きかったわけではないのですが、体を動かすことが大好きでしたので、部活で柔道をしていました。
小さい自分が体の大きな選手をバタバタと投げるのは快感でした・・・。とはいかず、体が小さかった私はバタバタと投げ飛ばされていました。
何キロ級という階級がありませんでしたので体重がドカンと重い選手から小柄で軽い選手までみな同じで試合をしていました。
このときの悔しさがあり、私は高校にいって階級がわかれるのでそこで一番になる!と決めていました。
柔道ではなくて階級のある、レスリングで。そこで、私が進学先に選んだのは金沢にある『星稜高校』。
その当時とても強く、ここしかないと決めてしまいました。
星稜高校の校長先生と面接で
担任の先生、進路指導の先生にも「おまえの成績じゃ無理や」と言われつづけても私は星稜高校の面接を受けたのです。
そして、面接当日私の面接官は、星稜高校の校長先生でした。
校長先生は「君はどうして、ここを選んだんだね?」と聞かれ、即座に「はい。僕はレスリングで優勝するために、星稜高校へきました。」というと校長先生の口から「うん、いんじゃない。きみ合格」でした。作り話でなく、この面接で合格し私は星稜高校へ進学したのです。
高校時代はひたすらレスリングに明け暮れていました。
ひたすら、練習。練習。試合ととにかくレスリングに打ち込んでいました。
その結果高校在学中に、国体で入賞することが出来ました。
レスリングで実績もできている、自分自身とても楽しく打ち込める。
大学に進みレスリングを続けるつもりでした。高校の授業も進学クラスで進路を決めていました。
が、私のことを考えていた両親の反対で私は進学し、大学でレスリングを行うことをあきらめたのです。
両親が反対した理由は、自分の周りで大学に進みレスリングを続けていた先輩の何人かが、体を怪我でこわしてしまい大学を退学している人がいたのです。
それを知っていた両親は、もし体が壊れたら取り返しがつかない・・・。
それで進学でなく、就職をしてくれと持ちかけられました。
就職か進学か悩みました
私は悩みましたが、両親の心配を聞き就職することに決めたのです。
とはいえ、時期は12月いまさら就職をするといっても、ほとんどでなくまったく就職先は無いという状態でしたので、就職先を決めることなく卒業をしました。
卒業後、自分で見つけてきた仕事をしてはいたのですが、体に自信があったのと、体動かすしか仕事できないなと思い現場の仕事をしていました。
朝バスにのり現場へ向かう、お弁当のポットを抱え、車内で同じようなことばかり話している人たちのなかで、自分は毎日同じことの繰り返しに
「ほんとうにこれが自分のやりたいことなのか・・・」そう考えると、もうだめでした。
「いや違う。俺にはもっとほかにやる事があるはずだ・・・」「この他に何かあるはずだ・・・。」
を1年半で7回繰り返しました。
7回繰り返したということは、7回転職をしました。
1年半で、7回仕事を変わりました。どれも「違う」という理由で辞めました。
その時私には付き合っていた女性がいました。
高校に入学してからでしたので4年ほど付き合っていました。
転職を繰り返す私を見て彼女から、「もう、別れましょう。ふらふらしているあなたが不安なの・・・」と彼女との別れがありました。
その時彼女に言われた「ふらふら」しているの言葉が応えました。
ふらふらしてたらあかんと考えていてどんな仕事にと考えて出た結論が「警察官」でした。
私は警察学校の1年間が一番勉強した時期です。
入学したはいいけれど、卒業出来なくて警官になれなかったらどうしよう?という不安はありました。
彼女を見返すために、警官になれず実家に戻れないと、必死でした。
勉強していなかった自分の遅れを取り戻すために、毎晩、布団の中で教科書を読んでいました。
消灯は夜10時でした。明かりがついていると注意をされるので布団をかぶりその中に懐中電灯を3個ほど持込み、光がもれないようにとすきまを埋めて、汗をかきながら必死に勉強しました。
その結果一年後無事に卒業することが出来、私は警察官になることが出来ました。
警察官は一生続けていく仕事だと思っていたが・・・
私が配属された先は地元でも「治安が悪いことで有名」な西成警察署でした。
喧嘩や事故、事件が毎日のようにありました。
刑事ドラマのような作られた話でなく、現場で事件・事故の大変さを目の当たりにしました。
人間が起こす事件に私は向き合っていました。警察官という仕事の責任、誇りそれがありました。
私は、この警察官という仕事は一生続けていく仕事だと確信をしていました。
それから数年後の転属までは・・・
昭和53、54年、成田闘争のとき私は
成田闘争ときいてわかる方もいれば、何のことかわからない人もいると思います。
簡単に説明をすると、私があるとき、機動隊に転属になったのです。
現場の仕事になれ充実感もあった時機動隊へ転属でした。
私はそこで、過去と同じ「ほんとうに自分のやりたいことなのか.・・・」と突然考えてしまったのです。それは、先に書いた成田闘争が関係しています。
当時盛んな学生運動のために機動隊も出動しました。
1ヶ月のうち15~20日ほど成田で過ごし、また10日地元。また出張という生活が1年間続いたのです。
ほぼ毎月です。
ジュラルミンで作られた、たてを構え、ヘルメットをかぶり、防具に身をつつみ壁のようになり無表情で立ちつづけている。
とてもむなしくなる瞬間があるのです。「俺何をしているんだ・・・」と
そのあと私は、機動隊を辞める、辞めたあと何をするか?で考え私自身助けられてきた、整体・整骨を行うことを決めました。
自分が助けられた、整骨の道へ
学生時代から柔道。レスリングとしていた私にとって整骨というのがとても身近でした。
整骨という接骨院、ほねつぎから、整体とありますが鍼灸整骨という日本に昔から確立されている整骨です。
体のバランスをとる、バランスが崩れると体のどこかに痛み・違和感としておこります。
それをさらに放置すると何らかの病気につながるなど、大変です。
私は体のこと、痛みから開放されること、体の根本の治癒ということで
自分も効果を実感している、この整骨の道へ進むことを決めました。
機動隊に配属されてから一年後の4月から、私は鍼灸の夜間学校へ通いました。
昼間は機動隊の仕事、夜は鍼灸の学校です。正直しんどい生活でした。
その1ヶ月後付き合っていた女性と結婚しました。
当時鍼灸の学校の学費にお金を使ってしたので新婚の私達の部屋にはあまり物がありませんでした。
当時の話をすると家内は、「あなたと結婚したときの部屋覚えている?クーラーの無い部屋でさあ・・」と笑って話してくれます。
今ではいい思い出、笑い話になるけどと、当時のことを言われています。
とにかく、この年は私にとって人生のイベントがたくさんありました。
鍼灸の学校へ進む、愛する人との結婚と。
それから鍼灸の学校へ3年間通いました。卒業したと同時に警察を辞めました。
鍼灸の資格を取りましたので、将来の独立のために、早く修行兼就職したいと整骨院に勤め始めました。
このとき私は28才。子供は3ヶ月でした。
子供も小さく、育児に大変な妻も「あなたの決めたことですから、一緒にがんばりましょう。私も応援します」と励ましてくれました。
あのときの言葉が将来、整骨院で独立して家族を幸せにするという、強い決意ができました。
余談ですが、警察官を辞めると両親、妻の両親に告げたときはともに「どうして辞める必要があるの?」と反対をされました。
警察官という安定した仕事から、商売将来は自営することに対して理解できないという言葉でした。
妻と私が、「それでも自分でこの道で・・・」と言う気持ちに「わかった」としぶしぶですが納得してくれました。
警察官を辞めたあと私自身、警察官という身分の恩恵を知ることになるのです。
このお話も、もう少し先でお話します。
多くを学んだ修業時代
就職先で私は師匠の指導を受けながら毎日施術を行っていました。
将来独立をする!と決めていましたので、毎日一生懸命に打ち込んでいました。
師匠の施術を観察する。患者さんの体の不調を聞き、体を丁寧に診ていく。この繰り返しでした。
毎日が学びと貴重な体験の繰り返しです。
勤めて2年が経ったのですか、ひとつだけ先に進まないことがありました。
それは、整骨の技術を学ぶために警察官を辞めて、申し込みをしていた整骨の学校になかなか入ることができず気持ちはすっきりしていませんでした。
というのも当時この整骨の学校が大阪で3校ほどしかなく順番待ちの状態。
またいくら待っていても【お金がある人から入れていくから・・・】というウソか本当かわからない情報を聞いてもんもんとして待っていました。
治療院に勤めてから2年目、入学できる案内がきました。
ビデオデッキが買えない、悔しさを
このときある悔しい思いをしたのです。
それは、整骨の治療のビデオを勉強のため必要になりビデオデッキを買いに電器店へ行きました。
そこでビデオをローンで注文したら「あなたには売れません」と言われたのです。
今まで断られたことがありませんでしたので、「どうして?」と電気店の主人に聞くと「信用が無いからローンはだめだ」と言われたのです。ショックでした。
2年前まで警察官というだけで、給料の何倍もあるオーディオセット、ほかの商品も買っていたので 「買えない」と言われのはとても悔しい体験でした。
警察官という部分に信用があり、自分は何も無いんだと知らされました。
このとき自分に「かならず成功して見返してやる」という気持ちがわいていました。
整骨の学校に通い、師匠の下で働くことを4年間行いました。
そして免許が取れましたので、いちはやく申請したいと昼間私は仕事ですので、申請を妻に頼み役所を回ってもらいました。
開業資金の工面、店舗の改装、治療器の設置などすべてそろえ開業へこぎつけました。
通りすがりのおじいさんとおばあさんが、開院1日前に私に・・・
さあ、明日から開院だと私は前日掃除をしに行きました。私の初めての店は2階です。
階段の周りを掃除していたら、表でおじいさんとおばあさんが、じっーと見て「急な階段やな。ひざや腰が悪い人が上がるのしんどいやろ。無茶やなー」と話しているのが耳に入ってきました。
わたしは階段を見上げました。「確かに・・・急だ」と開院前日に知らされたのです。
急遽業者さんに頼み両方に手すりをつけてもらいました。掃除を終え帰るとき、不安でした。
「あした何人の人がきてくれるんだろう・・・」と
開院当日はヒマだと考えてた私、でも実際は
今日はヒマだろうから本でも読んでいるわ。
朝家を出るとき、妻が「おめでとう。初日頑張ってね」と声を掛けてくれ、私は「ヒマだと思うから、本でも読んでいるわ。行ってくる」と家をでました。
ついたのが7時半。開院は8時から。カーテンを開けスリッパをそろえ準備でき8時になりました。
8時になると同時に「ガチャッ」と入り口が開き、患者さんが数人入ってきました。
「おはようございます」という間もなく次の人次の人と入ってきました。
ひまだから本でも読んでいるわということはとんでもないことで次から次へと患者さんが来るので、一人では対応できないと、家に電話を掛け妻にきてもらいました。
「患者さんで大変やから、今すぐきて」と
妻がきました。が、彼女はいままで事務員の仕事をしていたので、整骨の治療・器具のことはわかるはずもありません。
妻の「これどうするの?」に対応して患者さんの治療に対応してとドタバタと一日が終わりました。
初日、38人の患者さんがきてくれました。
誰も来なかったらどうしようから、忙しい一日で良かったな。と2人で一日をねぎらいました。
2日目からも順調に患者さんが来院いただいて、数年の間に6店舗つくりそのうち2店舗は独立させ、現在2院で整骨のしごとをしています。
本当に患者さんに恵まれ、今までやってこれたことに今思い出しても感謝の気もちだけです。
よく竹中さんは経営がじょうずだからと
経営が上手といわれるのですが、私自身そうは思っていないのです。
新しく治療院を開院するときは、遠くから来てくれるお客さんがしんどいだろうから、近くにあればいいだろうなと開院していきました。
そうすると、又そこへ遠くからきてくれる、患者さんがいて、また開院とそれだけなんです。そんな中、すべてが上手くいった訳ではなく、いま考えてみれば、失敗の方が多いような気がします。整骨院を数件、整形外科、デイサービス、ヘルパーステーションなどで、いろいろな失敗を重ねて勉強させていただきました。
当然経営者ですのでさまざまな責任、背負っているものはあっても体の不調を訴えている患者さんの痛みを緩和するのは経営ではなくて、整骨の技術です。
私がほかの整骨の先生とあきらかに違いがあるとすればそれは、整骨の技術を絶えず学び続けていることです。そして、自分自身も、骨折を4回、糖尿、心筋梗塞、蓄膿、急性膵炎などの病気を経験していること、自分自身で施術をしてきたことです。
時代の流れとともに流行、お手軽さのようなものが目に付きますが、人間の体の根本は変わっていません。
あなたの毎日の姿勢、仕事によっても体の違和感を感じる症状は違いますし、肩がこるでもさまざまな症状があります。それら体と向き合い真剣に施術家の知恵と技術を私は磨いています。ご来院いただく方のためにです。
当然この気持ちは私だけでなく、スタッフ・治療に当たる先生、皆同じ気持ちです。
おぎゃーと産声をあげて人の手で子供は生まれてきて、死んでいくときも棺桶の中に大勢の人の手を借りています。私はこの手と学んだ知恵で、体の不調をとりのぞいて、毎日楽しく過ごしてもらう仕事に誇りを持ち打ち込んでいます。
北区北花田、北区新金岡町の2店舗、どの整骨院でも同じように体の不調を解消する技術に自信があります。
私たちの手は、体の不調を改善して、体に活力を出すお手伝いをする手です。
少しでも私のことがこのページを読んでいただいた方に伝わればと思います。
さまざまな経験があり、今日の私があります。
私の言いたいこと、話したいことでなく、私の体験をそのまま書くことが一番私を知っていただくことになると思い書きました。
お付き合いをいただきありがとうございます。